自由法曹団京都支部

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教科書問題 (要請書)


要  請  書

2001年6月

自由法曹団京都支部
幹事長 森川 明
京都市中京区柳馬場通夷川上る
TEL:075(211)4411

私たちは、基本的人権の擁護と民主主義の実現をめざす弁護士の団体で、京都支部には約50名余の団員弁護士が在籍しています。「新しい歴史教科書」「新しい公民教科書」(いずれも扶桑社発行)が検定合格となり、7月中旬にの教科書採択の可否が決まる予定と聴いています。しかし、これらの教科書には極めて大きな問題があります。従って、以下のとおり要請を行うものです。(尚、引用ページはいわゆる市販本による)
 尚、自由法曹団 本部が作成した「公民教科書」についての見解を一緒にお届致します。あわせてご検討下さい。



要請の趣旨
中学校「新しい歴史教科書」及び「新しい公民教科書」(いずれも扶桑社発行)を採択しないでください。

要請の理由
私たちが要請の趣旨記載のとおり要請を行う理由は以下のとおりです。

第1 「新しい歴史教科書」について

  1.  「新しい歴史教科書」には事実の誤りがあまりにも多く、教科書としての最低限度の条件を充たしていると言えないからです。
    隅谷三喜東大名誉教授ら歴史学者7名は、「新しい歴史教科書」には51カ所もの事実の誤りがあることを指摘しています。例えば、「新しい歴史教科書」は1889年に発布された大日本帝国憲法を「アジア最初の近代憲法」(p212)としています。しかし、オスマン・トルコ帝国で1876年に公布されたミドハド憲法が先行しており、明らかな誤りです。年号の誤りも少なくありません。
    「新しい歴史教科書」で学ぶ生徒の学力低下が懸念されます。

  2.  神話を史実のように描いており、歴史と神話の区別も付かない子どもを育てることになりかねません。
    「新しい歴史教科書」は、神武天皇の東征について1ページにわたって (p36)、日本武尊の東征について2ページにわたって(p42,43)述べており、そこに戦前の国定教科書「国史」に使われていた東征地図とほぼ同じものが掲載されています。2月11日の建国記念日は神武天皇が即位 したとされる日であるとも記述されており(p36)、神武天皇が実在したかの誤解を招きます。「古事記」の伝える日本の神話を4ページにわたって説明しており(p60〜64)、そのボリュームは明らかに他との均衡を失しています。
    神話を史実であるかのように教えることは、「神国日本」と言って国民を侵略戦争に動員した戦前の過ちを繰り返すことにつながります。

  3.  帝国憲法、教育勅語そして天皇を賛美しています。
    「新しい歴史教科書」は、大日本帝国憲法について「聞きしにまさる良憲法」などという「憲法を称賛した内外の声」を紹介して、これを評価しています(p215)。しかし、天皇が軍を直接指揮する統帥権などの「天皇大権」を有したこと、国民は臣民として天皇の家来とされていたこと、法律の範囲内で保障されたにすぎない臣民の権利の実態などについて言及がありません。
    教育勅語については、「近代日本人の人格の背骨をなすものとなった」と評価して、全文を詳しい注釈付きで紹介しています(p215)。しかし、教育勅語が「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮の皇運ヲ扶翼スベシ」と教えて、国民を直接に侵略戦争の戦場に駆り立てた重大な罪には一言も触れていません。
    天皇については、その権威が歴史を通じて一貫して存在したかのように描き、昭和天皇について「昭和天皇―国民とともに歩まれた生涯」と題して、2ページにわたって、人柄をほめ、身の安全を省みずに戦争を終わらせたと功績をたたえています(p306)。しかし、その昭和天皇こそ、侵略戦争を開始し、遂行した最高責任者であったのであり、そこことに全く触れられていないことには驚きを感じざるを得ません。

  4.  日本の侵略戦争を正当化しています。
    アジア太平洋戦争で、日本はアジアで2000万人乃至3000万人に達する諸国民を殺害し、約310万人の日本国民が犠牲者となりました。
    ところが「新しい歴史教科書」は、このアジア太平洋戦争を、戦前の国定教科書と同じ「大東亜戦争」とよび(p276)、「日本の初戦の勝利は、東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と勇気を育んだ」(p277)、「各国の自主独立、各国の提携による経済発展、人種差別 撤廃をうたう大東亜共同宣言が発せられ、日本の戦争理念が明らかにされた」(p280)と礼賛しています。
    韓国併合についても「日本に向けて、大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。当時、朝鮮半島が日本に敵対的な大国の支配下に入れば、日本を攻撃する格好の基地となり、後背地をもたない島国の日本は、自国の防衛が困難となると考えられていた」(p216)、「日本政府は、韓国の併合が、日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考えた」(p240)などと言って、これを正当化しています。
    しかも、日本がアジアに与えた蛮行と被害の実態については、具体的な説明がほとんどされていません。例えば、従軍慰安婦の記述はありません。南京事件についても「民衆にも多数の死傷者が出た」(p270)と一言触れるものの、死傷者の数など事件の規模にも言及せず、「この事件の実態については資料の上で疑問点も出され、様々な見解があり、今日でも論争が続いている」と事件の否定に重点を置いたコメントを付しているのです。
    益々国際化が進む次代を担う子ども達に、日本の行った侵略戦争の実態を正しく伝えず、過去を反省する視点を教えないならば、アジアをはじめとする世界の人々と連帯して交流できる、国際人を育てることはできないでしょう。

  5.  「新しい歴史教科書」を採択することは日本国憲法と教育基本法に違反します。
    日本国憲法は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意して」つくられたもので(前文)、痛切な戦争への反省から生まれており、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重などの憲法の基本原則が築かれています。教育基本法は、憲法の「理想の実現は、根本において教育の力に待つべきものである」との認識の下、教育の目的を「平和的な国家及び社会の形成者」の育成にあることを明らかにしています。日本国憲法や教育基本法と相容れない大日本帝国憲法や教育勅語を賛美し、日本の起こした侵略戦争の実態を正しく伝えず、これを正当化する「新しい歴史教科書」は、根本的に、こうした憲法や教育基本法の理念と原則と相容れないと言わなければなりません。

  6.  「新しい歴史教科書」を採択することは日本の国際公約に違反します。
    日本国憲法は、再び侵略戦争をしないと言う国際的宣言であり、国際公約でもあります。これを受けて1982年には、教科書検定基準に「近隣のアジア諸国との間の近現代史の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から配慮がなされていること」との近隣諸国条項が付け加えられました。1995年の村山首相の「戦後50周年の終戦記念日に当たって」と題する談話では「私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。
    とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、何よりもこれらの諸国との間に深い理解と信頼に基づいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、とくに近現代における日本と近隣アジア諸国との関係に関わる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大を図るために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。」「いま、戦後50周年の節目にあたり、我々が銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
    我が国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ちなからしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここに改めて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。
    又、この歴史がもたらした内外すべの犠牲者に深い哀悼の年を捧げます。」と述べています。1998年の日韓共同宣言は「小渕総理大臣は、今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期韓国国民に対し、植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受け止め、これに対し、痛切な反省と心からおわびをのべた。・・・又、両首脳は、両国国民、とくに若い世代が歴史への認識を深めることが重要であることについて見解を共有し、そのために多くの関心と努力が支払われる必要がある旨強調した。」と述べています。
    「新しい歴史教科書」を検定合格させ、教育現場に持ち込むことは、明らかに我が国のこれらの国際公約に反します。

  7.  「新しい歴史教科書」を採択することは、アジア諸国都市との姉妹・友好提携している自治体にとって、その趣旨に違反します。
    京都府及び京都府下の各自治体の多くは、世界各国都市と姉妹・友好提携しており、東南アジア諸国の都市と姉妹・友好提携しているところが少なくありません(京都府で確認したところは別 紙一覧表のとおりです)。これらの姉妹・友好提携の相手方都市には、日本の侵略戦争や植民地支配で被害を受けたところも少なくないはずで、そうした都市とも交流することで自治体レベルで平和外交を進めるとの趣旨があるはずです。
    こうした姉妹・友好提携の相手方都市に、「『新しい歴史教科書』を使っています、そこに書いてある内容を子どもに教えています」説明できるでしょうか。
    東南アジア諸国都市との姉妹・友好提携の趣旨に反する「新しい歴史教科書」の採択はやめるべきです。

第2 「新しい公民教科書」について

  1.  「新しい公民教科書」は独自の考え方を基礎に個人の尊厳より国家を重んじることを教えています。
     (1)この教科書では、人間を、「私」と「公」に分け、「私」を自分の利益や欲望を追求する立場、「公」を国家や社会全体の利益や関心を考える立場とし、後者を「公民」と呼ぶとしています。そして、古代ギリシャでは防衛義務をもった市民が即ち公民が、近代社会では「私」の権利や利益追求が強く唱えられ、市民が「公民」から分離する傾向にあると述べています(7項)。これは、「公」と「私」を相反するものと前提し、「公」を「私」より優越的なもの、国家社会のことを考えることは私的生活関心より優越的なものとする独自の考え方を基礎にしています。これはこの教科書の最大の特徴ですが、この考え方は随所に現れています。例えば、民主主義は、「私」の事がらよりも「公」の事がらを優先させる公民がいて初めて実現される(36項)、日本の役割は私的な感情ではなく公的な国益から考えられなければならない(グラビア写 真9項。説明書き)、自立した個人とは、自己の生活と利益とを大切にするだけでなく「公共的な精神」をあわせもった人間(186項)、国家や社会全体の利益や関心という観点、つまり公共的な精神に立つ(209項)、などの記述です。
    しかし、「公」と「私」を分け、「公」が「私」より優越するものとして現実の社会生活が営まれるとの考え方は、一般 には承認されていません。また、この教科書では個人の尊重よりも国家を重んじる考え方を重要視しており、これでは文部科学省の学習指導要領で第一の目標として掲げている「個人の尊厳と人権尊重の意義」の学習は到底得られません。
     原理的には、社会は「私」の集合体であり「公」は個々の「私」から成り立っています。従って、「私」と「私」の集合である「公」をより良いものにするためには、まず「私」において個人の尊厳を重んじ、自他の人権を尊重する精神こそが「公」を良くするものです。
    (2)この教科書では、「公民」の説明として、古代ギリシャの都市(ポリス)の市民をもって、外敵からの防衛義務を負った公的存在としての「公民」と定義しています。
    しかし、これは現代社会における「市民」の定義としては重大な誤りです。現代社会の「市民」とは、西欧では市民革命を経て社会の担い手になった都市住民を起源とした層であり、日本では明治維新を経た後の社会の担い手を起源としています。これに対し、古代の「市民」とは、例えば古代都市アテネの市民権を認められた者を形式的に「市民」と呼び、奴隷や在留外国人と区別 して、特権的地位が保障された層のことを指します。従って、現代社会の市民を説明するにはふさわしくないと言えます。これは、この教科書の著者らの外敵からの防衛義務を強調する独自の見解を批判検討することなく記述しているもので、教科書としての使用には耐えられません。

  2.  「新しい公民教科書」は、「民主主義」について、その制度や働きについて
    正確な理解を妨げます。
    この教科書では、「民主主義(デモクラシー)」の言葉について、古代ギリシャ語を起源する「民衆の支配」から来ているとし、「したがって、民主主義の本来の意味は、民衆が権力をにぎって国を治めるという政治のあり方を意味する。もうすこし広くいうと、民主主義とは、多くの民衆が国や地方の政治に積極的に参加し、議論を積み重ねることによって互いの意見の違いを調整し、最終的な意思決定を行おうとする政治思想や政治の仕組み」(26項)としています。
    しかし、「デモクラシー」の語源としては「民衆の支配」であっても、「民主主義の本来の意味は、民衆が権力をにぎって国を治めるという政治のあり方」とすることは誤解を生じさせます。その結果 、この教科書では専制政治と対比させて、政治を行う者が一部の特権階級だけか多くの人民かの数の違いだけを強調する結果 になっています。
    民主主義とは、個人の自由や人権を認めない専制政治と闘って人民が獲得した自由や人権と国民主権を基礎にした、人民による人民のための政治思想や制度です。
    従って、この教科書が言うように、専制政治下では人民は政治に無責任で「気楽」で、政治の失敗はすべて一部の支配者のせいにすればよい社会、民主主義の人間は、そうした「甘え」は許されない(35項)などとの皮相記述は著者ら独自の見解に過ぎません。このような民主主義の制度の起源や重要な価値を無視した説明では、民主主義の理解は得られません。

  3.  「新しい公民教科書」は、大日本帝国憲法について誤った説明をし、かつ日本国憲法について重大な誤解を子供に与えます。
    (1)この教科書では、大日本帝国憲法を「万世一系の天皇が統治する立憲君主制」(55項)としていますが、「万世一系の天皇」という虚構が、この憲法を実際に起草した人々によって創作されたことを明らかにしていません。これでは、明治政府が、国民主権を採用せず天皇主権を採用し、一部の特権階級のために専制政治を行う目的であったことが子供には理解できません。また、大日本帝国憲法は、立憲政治の側面 と天皇は神聖にして侵すべからずとした憲法超越的側面があったことを正確に説明していません。
     また、「天皇は国の元首であり、国の統治権を総攬(広く監視)する者であると定められたものの、その統治は憲法の条規に従うとされた。」とありますが、「総攬」とは「広く監視」することではなく「すべて掌握する」ことであり、天皇に政治権力が一手に集中していたことをことさら隠そうとしています。「広く監視」するだけでは戦前の天皇の政治上の地位 の説明がつきません。天皇の政治権力のひとつに勅令を出したり、軍隊を統帥する権限がありますが、これは天皇は憲法を超越して唯一人の意思で法規を制定したり、戦争を遂行することができる権限のことですが、この説明ができません。
    さらに、大日本帝国憲法において、法律の範囲内で人権が認められたという説明は誤りではありませんが、法律により人権を制約してきた重大な側面 を記述していません。
    (2)日本国憲法については、その内容や制定をすべてマッカーサーの意図にして、日本政府の意に反して無理矢理迫っただけとの著者たちの独自の立場からのみ記述され、民間で作成された憲法草案も存在したこと、それが大正デモクラシーで育った日本の民主主義的な流れを汲むもので、新憲法を参考にされたことには触れていません。また、日本国憲法第九条の誕生には日本人である幣原喜重郎の意見が反映していたことが説明されていません。このように日本国憲法を敵視する説明では、憲法を尊重する公民は育たないでしょう。
    (3)天皇について、「大日本帝国憲法においても、天皇は元首であり統治権の総攬者であったが、直接政治を行ったわけではなかった。」(60項)と記述していますが、直接政治を行わなかったとの記述は事実に反しています。昭和天皇は、自らに気に入らなかった内閣を総辞職させた事実もあります。
    日本国憲法では「国民主権のもとで伝統的な天皇制度を維持することを確認している。」(60項)と記述していますが、天皇の地位 が伝統に基づくとの重大な誤解を生みます。天皇は、日本国憲法によりはじめてその地位 を認められたのであって、憲法を超越した伝統なるものに基づくものでは決してありません。天皇もこれを明言しています。これも著者たちの天皇が憲法を超えるものだ、との独自の立場をそのまま記述したもので、教科書として使用するには耐えられません。

  4.  「新しい公民教科書」には、子供の心を傷つけるひどい記述があります。これでは公民は絶対に育ちません。
    この教科書では「教養や財産などの点でとくに恵まれているわけではなく、非理性的な集団行動をとることもめずらしくない多数の人々を「大衆」、大衆が社会のあらゆる分野に滲出し、その動向に強い影響をおよぼすようになった社会を「大衆社会」とよぶこととすれば、民主主義の最大の問題は、民主主義社会が大衆社会に堕落してしまうことだ。」と記述しています(46項)。
    この部分を読む子供らはいったいどのような感想を抱くでしょうか。現代でも貧しい家庭はあり、また、両親の最終学歴が高くなく「教養」に恵まれていない家庭もあるでしょう。そのような子供がここを読むとき、自分の家庭の貧しさや親の「教養」の低さを気にして恥ずかしい思いをしたり、惨めな感情を抱くのではないでしょうか。
    この教科書では、このような家庭の子供は、「非理性的な集団行動をとる」「堕落した」「大衆」として教室の中で指摘され、惨めな思いをしなければなりません。ここからは、明日を担う健全な国民は生まれません。従って、この教科書は絶対に使うべきではありません。

  5.  「新しい公民教科書」は、「自由と両立する秩序を求めることが大切であり、そのような秩序は、各自の歴史、いいかえれば「国柄」に基づく秩序でしかありえない」(208項)とし、自由を「国柄」という秩序の中に閉じこめて制限しようとしています。
    これもこの著者らの独自の見解で、自由や人権を抑圧しようという危険な考え方です。「秩序」がその国の歴史や国柄に基づくものでしかありえないならば、国民は、過去に固定された歴史や国柄に常に押しとどめられ、人間の個性の自由な伸長は、歴史や国柄に反するとされるとたちまち抑圧されることになります。このような過去の価値を固定化し、それ以上の範囲にでないように子供に教えるのは、国際社会の新しい考え方や良いところを受け入れる姿勢をつみ取ろうとすることです。国民は、生まれた時には国籍を選択できないからこそ、そこだけに留まらず、外国の習慣や法制度など国際社会において比較し、悪いところは是正し、良いところは伸ばす姿勢をはぐくむのです。
    この教科書は、過去にのみ目を向け、未来には目をふさぎ、耳を覆えと教えるものです。これでは国際社会に役に立つ国民は生まれません。既に私たちの社会は、様々な分野で世界的になり、国連で働く人やスポーツで国際的な注目を浴びている選手も多数輩出しています。これこそ子供らの誇りとなるものではないでしょうか。
    また、「人間は、情報機器をはじめとするさまざまな機器なしには生きられなくなるという未来イメージに、遅かれ早かれ、反発し始めるに違いない。そして歴史的な秩序感覚と歴史的な良識感覚をもって、ロボットではなく血の通 った人間の交友関係、つまり、家族、地域社会そして国民国家といった共同体的な人間関係を再び築きあげようとする。このような、故郷意識から国家意識にいたる広い意味でのナショナルな感覚が、高度情報化社会に対する抵抗の砦となるのだろう。」(213項)と記述しています。
    これもこの教科書の著者たちの独自の見解を断定的に記述しています。この見解は、いわゆる家族国家観を基にする国家主義の典型的な記述です。
    現代の社会の高度情報化に対し、「国家意識」が最後の砦となるという説得的な説明はありません。また、ここにいう「歴史的秩序感覚と歴史的な良識感覚」とは先に指摘したとおり過去の歴史や固定的に捕らえられた「国柄」ですので、結局、この教科書では、国際的視野よりも国家を重視することを強調することになり、これではこの世界的な高度情報化社会に対応する人間をつくることはできないでしょう。